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ホタル保護の歴史

更新日:2022年03月01日

明治初年頃まで、上流の川岸(岡谷市)から下流の荒神山にかけての天竜川一帯はホタルの名所として知られ、いたるところで群飛が見られたといいます。川岸駅近くにかかる観蛍橋は、以前は鮎沢橋と呼ばれていましたが、明治12年のかけ替えの際に、ホタルの多いことから現在の名前に変えられました。

明治末年頃になると、製糸工場の発達で川が汚染され、ホタル発生地の本場は下流の上平出のあたりへと移ってきました。この頃、鉄道の開通によってにぎやかくなった下辰野へは、ホタルの時期になると多くの見物人が集まり、大変なにぎわいだったようです。しかし、地元の人びとをはじめ見物客もホタルは捕りほうだいで、しかも遠くから商売のために捕りにくる者も多かったので、大正の中頃までにホタルは急激にその数を減らしていきました。

小口珍彦先生らの努力で県の天然記念物に指定

大正7年、朝日尋常高等小学校(現在の東小学校)へ赴任してきた小口珍彦先生は、このままではホタルは絶滅してしまうと考え、「蛍の話」という小冊子を作り児童を通じて各戸へ配るなど、ホタルの保護を呼びかけました。
また、それまでどこの家にもあった蛍籠(鑑賞用に何十匹かのホタルを集めて入れておいた籠)をやめてもらうよう生徒を通じて家々にお願いしたり、生徒を動員して毎晩川辺を歩いては、ホタル捕りをやめさせるよう番をするなど、さまざまな活動を展開しました。さらに、平出、辰野両青年会や伊那富尋常高等小学校(現在の西小学校)などの協力もあって、ホタルの保護は地域運動に発展し、大正14年には、県の天然記念物指定(昭和3年には指定範囲拡大)されるまでに発生するようになりました。

戦後、絶滅の危機に

昭和23年6月、戦後の経済復興の中で「ほたる祭り」が復活、翌24年には、商工会によって「辰野音頭」と「ほたる小唄」 が制定されるなど、祭りは盛大に開催されるようになりました。しかし、自然はあまりにも失われていて、ホタルの発生も戦前とは比較にならないほど減っていました。

そこで関係者は昭和30年、辰野高校生物クラブ(勝野重美先生指導)に、ホタルの研究を依頼することにしました。
昭和35年2月には、新しい文化財保護条例により、下辰野の松尾峡一帯が「辰野のホタルの発生地」として県の天然記念物に指定されましたが、この頃になると、ホタルは天竜川本流からは発生しなくなり、用水路での発生もかたよってきました。原因は水質の悪化によるものでした。 

幼虫の放流

昭和36年、信越放送株式会社の長野県学校科学教育奨励基金の制度が発足し、辰野高校生物クラブの「ゲンジボタルの研究」が助成をうけることになりました。これを契機にして、滋賀県守山より成虫4000頭を購入して室内で産卵させ、孵化した幼虫を放流しました。その後、昭和38年から4年間は東京の椿山荘の協力により、同荘の庭園内に産卵用のコケをとりつけ、産みつけられた卵を持ち帰り、幼虫を孵化させ、松尾峡をはじめホタルの発生している用水路に放流しました。

しかし、水質汚染は年々進みホタルの増加はあまり望めなくなり、昭和40年代前半になると用水路でのホタルの発生も激減し、このまま放置すれば辰野のホタルは絶滅してしまう状況になってしまいました。 

全国初のホタル専用の人工水路設置

そこで、水質を改善するため、昭和45年、大沢の清水を上堰(伝兵衛堰)の用水路に入れることが実現。また、これによって、下流の松尾峡周辺ではホタルの発生量の減少に歯止めがかかり、徐々に増加するようになりました。

また、昭和48年には、勝野先生の提案により、ホタル専用の人工水路が全国で初めて設置され、ホタルの幼虫とそのエサであるカワニナの保護・増殖が始まりました。その後、水路の泥払いや草刈りなどを行い、昭和50年には、ついに大量のホタルの発生を見ることができたのです。

現在も続くホタルの発生を支える地道な努力

ところが、この人工水路が天竜川の護岸工事ののため移転せざるを得なくなり、やむを得ず新しい水路が作られることになりました。
それから、昭和54年の松尾峡上堰(伝兵衛堰)の水路改修、59年の第二水路の造成、62年の大堰の改修等が進められ、勝野先生をはじめ関係者の努力で、現在では、毎年ホタルの乱舞が見られるようになりました。
また、上平出側のほたる童謡公園も完成し、さらに、範囲を広げてホタルの発生を支える努力が、現在も続けられています。

(辰野町誌「自然編」「近現代編」、わがまちたつののホタル、昆虫と自然1968年6月号から)

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