町長メッセージ2022年度

更新日:2023年03月13日

引退と挑戦

辰野町下辰野出身で、前WBO(世界ボクシング機構)女子スーパーフライ級王者の小澤瑶生(おざわ たまお)さんが2月26日、京都市内「KBC京都」において引退式が行われました。昨年5月30日、後楽園ホールにて3度目の挑戦で悲願の世界王者を獲得し、今後の防衛戦に期待もされておりましたが、これまで自分を支えてくれた家族のためにこれからは生きようと引退を決意、この日を迎えました。テン・カウントが会場に響き渡り、瑶生さんはリングに別れを告げました。町民を代表して花束をお渡ししました。これまでの励まし、応援いただいた辰野町の皆さんのおかげと感謝の気持ちを述べられました。生涯戦績は22戦17勝(6KO)5敗。多くの人に夢と希望を与えてくれた実に立派な戦績です。大変お疲れさまでした。そして感動をありがとうございました。

花束を持った写真

世界の表舞台から去る人がいれば、世界の舞台に挑戦する人もいます。辰野町赤羽出身で、現在順天堂大学2年生の瀬戸郁美(せと いくみ)さんです。

2月に川崎市で開催されたランニングとバイク(自転車)の合計タイムを競う「デュアスロン」という競技の全国大会で見事初優勝!4月にスペインで開かれる世界選手権への出場が決定しました。3月9日、その報告に来庁されました。幼少期より水泳、陸上競技に打ち込み、大学に入って「トライアスロン競技部」に入部し、そこで初めて自転車競技を学びました。早朝、放課後、休日も練習を欠かさず、自分を鍛え上げました。全国大会では自分はまだ無名なのに、格上の有名な選手を次々と追い抜き、一番でゴールテープを切りました。その瞬間、日本のトップアスリートに躍り出たのです。まだまだ伸びる。もっと強くなれる。そんな選手がこの辰野町から出たことに驚きと喜びでいっぱいです。世界大会でのご活躍を祈ります。頑張れ!郁美さん。

競技風景、大会時の写真

(アスリートオブジャパン提供)

町長室での懇談風景

令和5年3月

辰野町長 武居 保男

小澤美幸さんの生き方から学ぶ

辰野町宮木東町出身で、東京都内の音楽著作権管理会社に勤める小澤美幸(おざわ みゆき)さんが、1月23日来庁されました。

昨年2月に、「夢を創るリアリティ~私が出逢ったヒーローたち」(日本橋出版)を出版。「みずいろの雨」「パープルタウン」などのヒット曲で知られる歌手・八神純子さんをはじめ影響を受けた音楽関係者へのインタビュー集です。身体のハンディキャップによる挫折を乗り越えて現在の音楽関係の仕事に就いた小澤さんの生き方は反響を呼び、昨年からマスコミ数社から取材を受けておいででした。

 

小学生の頃より成長期の問題で脚にハンディキャップが残り、松葉杖が欠かせなくなりました。高校時代から医者を目指し猛烈に勉学に励んでいましたが、当時志望した大学側は周りの迷惑になることを理由に障がい者の受け入れを拒否、医学部進学を断念しました。本意ではない法学部に進路変更をしたものの、望んでいない生き方に失望感を抱く毎日。そんな中、あるコンサートをきっかけに出会った音楽家たちからの影響を受け、人生が好転していきます。人との関わりの中で前向きになっていく自分がそこにいました。これまでのネガティブな考え方・生き方から一変、自分自身に「自己肯定感」が持てるようになりました。そうして落ち込む日々で出会った音楽関係者の言葉に感銘を受けながら、音楽業界に就職されました。「1級知的財産管理技能士」という難しい資格も取り、著作権や原盤権の管理などのお仕事をされています。

 

「過去は変えられないが、未来は変えられる」という私の好きな言葉があります。しかし小澤さんとの対談から「過去は変えられない」が「過去の持つ意味は変えられる」との境地に達しました。小澤さんの生き方で、「今」あるのは間違いなく変えることのできない「過去」があったからです。しかしその過去が輝くばかりの光を今、現在を照らしてくれている。そんな気がするのです。

それともうひとつ。人生の中で出会った人たちとの出会いが自分の人生をかたちづくっていく。小澤さんは「つくる」を「創る」の文字をお使いです。未来はいかようにも思い描けます。「人生はクリエーション」「人生は創造だ」と私の恩師は教えてくれました。出逢った方々に感謝しながら生きていく先に、次から次へと自分の人生を決定づける人、「キーマン」がいる。そんなことも感じました。

小澤さんとの出逢いに感謝し、再会をお約束しました。心待ちにしております。

小澤美幸さん来庁

「夢を創るリアリティ」(日本橋出版)

ISBN 978-4-434-30017-2

令和5年2月

辰野町長 武居 保男

新春あいさつ 今年の抱負

新年明けましておめでとうございます。皆様におかれましては、穏やかなお正月をお迎えのこととお喜び申し上げます。

 

昨年を振り返りますと、未だ収束しない「コロナ感染症対策」に明け暮れた1年でありました。

「ワクチン接種」に関しましては、先月12月時点で対象者・希望者の9割の方が終了しております。町民の皆さんには、混雑する接種会場において係員の誘導にご協力いただいており、誠にありがとうございます。現在、オミクロン株対応のワクチン接種が進んでおります。ご案内が届きましたら、準備をお願いいたします。これ以上の感染拡大を防いでいきたいと思いますので、ご協力をお願いいたします。

「生活者支援・事業者支援対策」では先月から今月末までの期間、「プレミアム商品券事業」に加え、「ほたるマイカードのポイント3倍セール」を実施中であります。また、なかなか客足が戻らない飲食店支援策として、長野県下で初めての取り組みとなりますが、3人以上で1人当たり5千円以上の会食に2千円を補助する事業も展開中です。今月末まで「新年会」を開く際にはぜひこの制度をご利用ください。町内外問わず、どなたでもご利用いただけます。

 

さて、新しい年を迎えました。コロナ禍で後回しになってきた課題もあるため、今年は課題解決の年にしていきたいと考えています。

1つ目にはかねてから要望のあった「病児・病後児保育及び児童発達支援センター」の設置に向けた検討を始めます。辰野病院近くへの設置を前提に用地交渉を進め来年度着工を目指します。

2つ目は旧荒神山ウオーターパーク跡地の利活用について、町民の皆さんからもアイデア・意見をうかがいながら、専門家も交えて整備方針・方向性をまとめていく予定です。

3つ目は交流人口、関係人口、共創人口の輪を広げることです。今、下辰野商店街ではトビチ商店街、トビチ美術館、トビチホテルの開店などの動きがあります。また、辰野駅横にある「信州フューチャーセンター」では定期的に「えんがわまるしぇ」や「ごほうび食堂」が開催され大勢の人で賑わっています。こうした「人と人との出会い」から生まれる新たな動きが次第に大きくなってダイナミックに展開されています。今年の「第75回辰野ほたる祭り」に合わせて「ART(アート・芸術)」と「Tabi(旅・旅行)」を組み合わせたコラボ企画「ARTabi(アータビ)」と銘打って「現代アートの国際コンテスト」を辰野美術館で開催する計画もあります。

 

今年も皆さんの知恵とアイデア、行動力を結集して、思いを形にしていきたいと考えています。辰野に生まれてよかった、移り住んでよかったと感じられる「幸せのまちづくり」に一生懸命取り組んでまいります。辰野町が明るく元気な年となるように、また皆さんにとっても夢と希望あふれる年となりますように祈念して、新年のご挨拶とさせていただきます。今年もよろしくお願いします。

年賀状元旦配達式

年賀状元旦配達式

荒神山たつの海の全面結氷

荒神山『たつの海』の全面結氷

令和5年1月

辰野町長 武居 保男

冬のほたる ファイナル花火

辰野町観光協会主催の恒例イベント「冬のほたる2022」が荒神山公園で行われました。「冬のほたる」は、イベントの少ない冬場の楽しみをつくり観光誘客に結び付けようと、2009年(平成21年)にスタートしました。

当時、辰野町観光協会長だった板倉健(いたくら たけし)さんが発案したもので、商工会職員だった私も実現に向けて毎日打合せをしたことを思い出します。打ち上げ花火にかかる費用は意外に高額で、ご寄付のお願いに連日歩き回りました。多くの賛同者が集まったものの花火の打ち上げ時間は、5分間ほどでした。それでも初回にしては見事な花火大会となったと自負しています。

コロナ禍で今年もできませんでしたが、イルミネーションも荒神山公園の芝生広場やウオーターパーク跡地で実施したこともあります。町外の方々からも支援の手が寄せられました。アトラクションもこれまでに多くの皆さんが出演していただきました。キッチンカー等での出店者のご協力も大変ありがたいものです。真冬の寒い中での温かい飲み物、食べ物の提供は、私たちの体を芯から温めてくれます。昔は遠くの自宅から眺めていた花火の打ち上げを、今では間近で見ようと、多くの町民の皆さんが車で荒神山までかけつけてくれるようになりました。大変な混雑ぶりです。

 

長年かけて、このような賑わいをつくって下さった板倉健さんは、この9月28日に病気のためお亡くなりになりました。享年78歳。今年も花火の彩り・輝きで染まる夜空を一緒に眺めようとしていたのに、寂しくてなりません。打ち上げられた花火が大輪の花を咲かせ、静かに散っていく姿は人の一生の様です。

誰かが詠んだという一句を記し、今年最後の町長のページといたします。よいお年をお迎えください。

 

美しゅうて やがて悲しき 花火かな

板倉健さん(2018年4月撮影)

冬のほたる2022

令和4年12月

辰野町長 武居 保男

「さだまさしさん」に、お会いしてきました!

「町長のページ 6月号」に、私は「風の篝火 さだまさし」のタイトルで、かつてさだまさしさんが辰野町を訪れ、「風の篝火」という名曲をつくって下さったことを載せました。ほたる祭りが開催される時期になると、私には忘れられない思い出があるからです。

 

あれは私が20歳の大学生の頃、東京・大都会の片隅で、三畳一間の小さなアパートの一室で、テレビのないラジオだけの生活・・・確か文化放送「セイヤング」という番組だったと思います。パーソナリティの「さだまさしさん」の声が流れてきました。

「先日、信州は長野県の辰野町というところに行ってきました。ホタルで有名な町と聞いて初めて訪れました。地元の方から説明を受けながらホタルが鑑賞できる場所まで歩いていくと、そこには言葉を失うほどのホタルの乱舞。本当に見事な幻想的な風景でした。その時の感動を曲にしました。・・・「風の篝火」という曲です。」

 

自分のふるさとのことをさだまさしさんが語っている!・・・驚きと喜びが入り混じり、感動が爆発しました。今思い出しても嬉しかったなあ!

あれから数十年・・・さださんは全国くまなく回るコンサート会場で「辰野のほたる」のことを語ってくれます。「ほたるのことを語らせたら右に出る者はいない歌い手」だとか、自らを「歌うホタル」とか言って、会場のお客さんを笑わせます。数年前にはお隣の静岡県の県民新聞「静岡新聞」で辰野町の蛍のことを記事にして宣伝して下さいました。

 

私は、こうしたさださんの一連の言動は「辰野へのラブコール」と受け止めておりました。そして、いつの日かこちらからも「さださんへのラブコール」をしなければと思っておりました。

そんなおり、10月4日に山梨県民文化会館でコンサートがあることを知り、居ても立っても居られず、甲府市まで行ってしまいました。事務所の方にお願いすると、思いもかけず会って下さると。

初めてお会いする大スター「さだまさしさん」の第一声は「辰野町さんへはこちらの方こそ、ご挨拶に行かなければなりませんでしたのに、本当に恐縮です。わざわざお越し下さりありがとうございます。私にとって「風に篝火」は大事な曲です。大切に歌っていきたいと思っている曲です。」・・・思いもかけないお言葉でした。

 

来年は「グレープ」が結成して50年ということです。記念のコンサートを全国各地で行うようです。「グレープ」とは、さださんがソロ活動前の2人組グループです。「精霊流し」「縁切り寺」等、数々のヒット曲を飛ばしました。私は1ステージ〇千万円もするコンサートではなく、昔みたいにギター1本担いで、「風の篝火」、1曲だけでいいから歌ってもらう「風の篝火コンサート」を夢見ています。そんなお願いもしてきました。ひょっとしたら、辰野町に立ち寄って下さるかもしれません。期待せずに待っていましょう。

笑顔・優しさがあふれていたさださん

令和4年11月

辰野町長 武居 保男

「ふるさと信州辰野会総会」が3年ぶりに開催!

旧朝日村出身者からなる「東京朝日会」(昭和38年創立)と辰野町に縁ある在京者からなる「ふるさと辰野会」(平成19年創立)が統合され、「ふるさと信州辰野会」が発足したのが令和元年9月のことでした。毎年の再会を誓い合ったのにコロナ禍で2年間中止、今年ようやく再開の運びとなりました。

 

昭和20年代の戦後復興期から昭和30年代の高度経済成長期、辰野町からも多くの方々が故郷を離れ、仕事・生活の拠点の場を東京方面に求めました。時代の荒波の中で、過酷な労働条件の中でも歯をくいしばって頑張りぬいた皆さんが参集されました。お一人お一人に話を伺うと、兄弟も多く大家族で家計の事情で上京された方、大いなる夢・希望をもって上京した方、理由は様々でも皆さんを支え続けたのは、故郷への熱い思いでした。辰野町の蛍をはじめ美しい自然環境のなかで、野山をかけまわった幼少期の思い出、仲が良かった多くの友達たちとの思い出、厳しくも温かくご指導いただいた先生方の面影、両親と元気な姿で会える日を楽しみに頑張りぬいた東京生活、それを支えてくれたのも「ふるさとのよき思い出」でありました。そして本心はふるさと辰野でずーっと暮らし続けたかった気持ちもあることをお察しいたしました。

 

故郷を離れて暮らす皆さんのためにも、いつまでも故郷を自慢に思える、誇りに思える町にしなければと、思いを新たにしたところです。今月の横川の御柱祭、来春の小野の御柱祭、来年のほたる祭りにもぜひ行きたいとの声も聞かれました。皆さんとの再会まで、元気な町であり続けたいと心に誓い帰途につきました。

集合写真

和やかな懇親会の様子

町特産品販売コーナー

令和4年10月

辰野町長 武居 保男

日本土木史の父・渡邊嘉一記念碑除幕式

日本土木史の父といわれる「渡邊嘉一(わたなべ かいち)」の記念碑が去る8月26日、辰野町平出に建立されました。

渡邊嘉一は上伊那郡朝日村、現在の辰野町平出出身の土木技術者です。明治から大正にかけて国内外における多くの鉄道関連事業に関わり、その偉大な功績から「日本土木史の父」と呼ばれています。

このたび、辰野町内の竜東線、県道下諏訪辰野線の交通対策事業で、多くの地権者から土地提供のご協力をしてもらいました。そのうちの一部が渡邊嘉一生誕の地で、子孫にあたる宇治橋家の土地でした。嘉一からみて兄のひ孫にあたる東京都在住で現在東京工業大学名誉教授の宇治橋貞幸(うじはし さだゆき)さんが、この地に嘉一の業績を伝える記念碑を建立、辰野町が寄贈を受けたものです。宇治橋さんは「渡邊嘉一を郷土の誇りとして皆さんの記憶にとどめていただき、この記念碑を末永く見守ってもらいたい。」と話されておりました。

 

(碑文)

渡邊嘉一生誕の地

渡邊嘉一(旧姓 宇治橋)は、宇治橋瀬八の次男として1858年(安政5年)朝日村平出(現 辰野町)に生まれる。

開智学校(松本市)での学びを経て1877年(明治10年)上京して工部大学校(現 東京大学工学部)へ入学。卒業後は渡邉家の養子(1882年)となり英国グラスゴー大学(スコットランド)へ留学し土木工学を学ぶ。

卒業とともにエジンバラ近郊にある長大鉄道橋フォースブリッジ建設に関わりスコットランド紙幣に載ることとなった。

帰国後は(1888年)は京阪電鉄、石川島造船所、伊那電気鉄道など数多くの事業に携わり明治・大正期の実業家として顕著な業績を残し、同時期の渋沢栄一とも親交を結ぶ。

ここに郷土の偉人である渡邊嘉一を後世に伝えるため記念碑を建立する。

令和4年8月 辰野町へ寄贈

東京都杉並区 宇治橋貞幸

渡邊嘉一 ※出典 石川島重工業株式会社108年史

8月26日 除幕式の様子

令和4年9月

辰野町長 武居 保男

ママになってつかんだ 世界チャンピオンベルト!

世界ボクシング機構(WBO)女子スーパーフライ級タイトルマッチ10回戦が今年の5月30日、東京・後楽園ホールで行われ、辰野町出身の挑戦者・小澤瑶生(たまお)選手がチャンピオンの吉田実代選手を2-1の判定で破り、3度目の世界挑戦で初めて王座に就きました。小澤選手は昨年6月に出産してから復帰初戦でした。

 

7月13日、小澤さんはチャンピオンベルトをもって、ピアニストの夫・岸本良平さんと1歳1カ月になった長男・緯泉(いずみ)ちゃん、父・小澤俊男さん、98歳の祖母・幸子(ゆきこ)さんの5人で来庁されました。

子どもが生まれ、自分の夢を追いかけてよいのかと悩み苦しんだ日々。「今できることをやってみたらいい。協力する」夫の言葉が後押しとなって、練習を再開、身体を鍛え直したそうです。「家族、友人知人、町の方々からの熱い応援も大きなエネルギーになりました」と感謝しておりました。

 

信州の、こんな小さな田舎町から「世界チャンピオン」が誕生!とんでもないことが起こりました。瑶生さんは小学校ではバレーボール、中学・高校・大学とバスケットボールで活躍、全国クラスの才能を見せておりました。ところがボクシングとの出会いが瑶生さんの人生を変えました。しかしボクシングは格闘技。5年前、私は瑶生さんの世界タイトルマッチ初挑戦の応援に京都まで行きました。壮絶な打合いの末、判定で惜敗。まぶたは切られ、顔は腫れ上がっておりました。しかし今回の試合は綺麗なままで安心しました。とびきりの「たまおスマイル」も健在でした。本当に良かった!感動しました。

 

どんな苦境にも負けず、困難に打ち勝ち、常に前向きに生きている姿。目標達成のために今日できることを一生懸命に取り組み、周りの人たちへの感謝の気持ちを忘れない。諦めない不屈の魂・強い心と家族への愛情・優しい心。瑶生さんからはいろいろなことを教わりました。

防衛戦も楽しみです。もうしばらく私たちにいい夢を見させてください。

7月13日、凱旋報告

令和4年8月

辰野町長 武居 保男

コロナ禍のほたる祭り

コロナ禍で迎えた3回目のほたる祭りが終わりました。2年前はほたる童謡公園への入園は密を避けるため完全封鎖。昨年は辰野町民、在住・在勤者の方の入園は可。今年は町内指定の宿泊施設ご利用の方を加えての対応とさせていただきました。本来ならば全国からお見えになる方々のためにお祭りをしたかったのですが、コロナが完全収束せず、今回のような対応を取らせていただきました。誠に申し訳なく思っています。

主役のホタルの発生状況ですが、昨年は史上2番目となる20万匹、今年も大発生の翌年は激減する統計上の予想を覆す15万匹の大発生となりました。多くの皆様に見ていただきたい絶景でした。

 

通常ならば、商店街を歩行者天国にし、100軒を超える露店が立ち並びます。各種団体による町民総踊り(ぴっかり踊り)にも約3千名が参加してくれます。辰野駅近くのおまつり広場には仮設ステージをつくり、太鼓演奏、ダンス等、若者の熱気で包み込まれます。

今年もコロナ対策のため歩行者天国は設けず、露店出店もありませんでした。コロナ禍でいろいろな制約があるなか、何ができるかを知恵をしぼり工夫した結果、新たな動きが出てまいりました。

 

辰野駅周辺でなく、町役場周辺の駐車場を使っての「じもとイチ」は昨年より10店舗以上増えた約30店舗で大盛況でした。スマホを使った商店街を回遊させるスタンプラリー「タツモンゴー!」は辰野中学校の生徒が考案。商店街に昔懐かしい「駄菓子屋」を開店させたのも地元の中高生たちでした。こうした若者の積極的な参画はこれまでのお祭りでは見られませんでした。今後大いに期待される動きであることは間違いありません。

 

できないことを嘆くのではなく、できる方法を考える。できないと諦めるのではなく、やれそうなことに積極的にチャレンジする。多くの皆さんがアイデアを寄せ合って、みんなが楽しめるお祭りにしようと、この3年間のコロナ禍のお祭りで新たな意識が芽生えたことも確かです。来年はもっと素敵なお祭りになることでしょう。来年こそ、制限のないお祭りとなることを願います。あわせて全国の皆様のお越しを心からお待ちしております。

大盛況の「じもとイチ」

スマホを使ったスタンプラリー

商店街に駄菓子屋開店

令和4年 7月

辰野町長 武居 保男

風の篝火(かがりび) / さだまさし

(ほたる祭りの季節となりました。1978年(昭和53年)シンガーソングライターのさだまさしさんが辰野を訪れたときに作った曲「風の篝火」について語った手記を原文のまま紹介します。)

 

「 螢の光彩の妖しさ、哀しさを語るには、都会が増え過ぎてしまいました。螢は、私達の呼吸するようにゆらりと舞います。丁度ガスの抜けかかった風船の様に、頼り無げに舞うのです。

長野県上伊那郡辰野町、ここは町ぐるみで、今はもう珍しくなった螢を守り、育てているすばらしい町です。毎年6月末から7月初旬にかけて、ここは螢祭りで賑わいます。各地から口コミだけで、或いは小さな案内を目にとめて、ひとときの幽玄の世界を求めて人々が集まってきます。昨年(昭和53年)の6月24日、僕は、辰野へ出かけました。この頃は梅雨時で、螢祭りの期間中といえど、雨が降れば降ったで、風が強ければ強いで、螢は、叢で、葉陰で、じっと息を殺してしまいます。内心不安を抱き乍ら行ってみると、曇りだが雨ではない。風はあるが強くはない。いわば運良く螢日和。偶然知り合った辰野高校生物部の二人と、合わせて三人で螢の名所へ夕暮前から出かけました。僕はすっかり缶ビールと柿の種で良い気持ちになって、彼等の折角の説明も子守唄に聴いてしまう。

螢は呼吸の時に光るのではなく、呼吸の時に光を遮断する膜が下りるのです。螢は肉食で、カワニナというきれいな水にしか住まない貝を喰べて育ちます。螢は臭いが強いから、他の虫に襲われない、だから弱い虫のくせに、夜に光を出す様な大胆な事をするのです。螢は・・・螢は・・・、彼等二人の説明の内に、郷里への愛がはずんでいましたよ。現在はそうではないけれど、かつて辰野は蚕で生活していたのです。と更につけ加えて、記念にあげます、と差し出してくれた彼等の学校の校章は、蚕蛾をモチーフにしてありました。

やがて、日暮れと共に、螢の登場です。葉陰から、ゆらゆらと立ち昇り、風に流される様は、言葉に尽くせるはずもありません。息づく様に、あえぐ様に淡く灯ります。

無数の螢が光の夜想曲を奏で、いくつも舞う螢達は、うち寄せ、また帰る、おだやかな旋律でした。それはかすかに吹く風の、ともした篝火に違いありません。彼等二人は、この時更に郷里をみつめ、僕は、そういう二人を嬉しくみつめておりました。 」

 

45年前にさだまさしさんが観た螢の子孫が今年も元気いっぱい舞い上がることでしょう。一生懸命、小さな命をつないできてくれました。そんな螢たちとの再会がとっても楽しみです。

令和4年 6月

辰野町長 武居 保男

未来につないだ辰野3社の御柱祭

「伊那御柱」と称される辰野町内の3神社~三輪神社、宮木諏訪神社、法性神社~の御柱祭が4月23~25日の3日間行われました。23日に開幕したお祭りは、コロナ禍のため人数制限やクレーンやトラック、重機による柱の曳行を行うなど過去に例のないものとなりました。山出し、里曳きを経て各神社へと曳きつけられた柱が社殿の四隅に建てられ、3日間にわたった熱いお祭りも幕が下ろされました。

 

昨年暮れには新型コロナウイルス感染者数が減り、終息の兆しも感じられていました。ところが、新年を迎えると感染者数が激増、高止まったまま本番を迎える事態となりました。本祭の実施方法も試行錯誤しながら検討してまいりました。そして3神社代表役員会で「人力による曳行は難しい」と苦渋の最終判断が打ち出されました。

 

毎晩聞こえてくる木遣りやラッパ隊の音色。御柱青年会の笠踊りや長持ちの練習にも日に日に熱がこもってきました。綱打ち、木造りなど大人数を要する作業も感染防止対策を徹底しながら準備を進めてきました。町内の飾り付け作業もお年寄りから子供たちまで多くの住民が参加してくれました。みんなの心が次第に1つに集約されていくのが分かります。そして迎えた開幕日。御柱に直接付き添う役員も、沿道から応援する人々も、みんな同じ気持ちで、心ひとつになって神社を目指しました。続々と境内に引き込まれてくるそれぞれの御柱。最後の建て御柱では御柱が垂直に立ち上がる勇壮な光景に皆が固唾を飲んで見守っていました。そしてすべての柱が無事に建立、全日程を終えました。役員の皆さんは安堵の表情を浮かべておりました。周囲の氏子の皆さんは笑顔でいっぱいでした。それぞれの御柱がみんなの心に収まりました。

 

いま、地域社会の結びつき、絆、コミュニティの希薄化が叫ばれています。しかし、今回の御柱祭を見て感じたこと、それは地域の皆さんが一致団結し、過去から脈々と伝わる伝統・歴史をしっかりと未来へつなげたことです。コロナと向き合い、悪戦苦闘しながらも、「御柱の文化」をしっかりと後世へ伝えることができました。未来に残した知恵と工夫です。

私自身、多くの感動をいただきました。「力を合わせてお願いだあ!」の木遣りが今も心に響いています。これからも皆さんと力を合わせて生きていきたいと思います。今回の御柱祭に関わったすべての皆様に感謝申し上げます。本当にありがとうございました。お疲れさまでした。未来に誇れる立派なお祭りでした。

三輪神社

宮木諏訪神社

法性神社

令和4年5月

辰野町長 武居 保男

春の甲子園から学んだこと

第94回選抜高校野球大会の決勝戦は3月31日、大阪桐蔭(大阪)が近江(滋賀)に勝ち、4度目の優勝で幕を閉じました。ところで、今回の「春の甲子園」は当たり前の大会ではありませんでした。優勝した大阪桐蔭と2回戦で戦う予定だった広島商(広島)はコロナ陽性者が出て辞退。準優勝した近江に至ってはもともと出場予定だった京都国際高校(京都)が開幕前日に集団感染で辞退。大会前日になって急きょ、地区補欠校1位の近江高校が出場決定となったのです。

 

その近江高校の初戦、長崎日大(長崎)戦の2塁の審判を務めたのが、わが辰野町役場建設水道課職員の一ノ瀬雄大(いちのせ ゆうた)さんでありました。高校時代は甲子園の夢は叶いませんでしたが、その後もひたすら野球を愛し、審判としての経験を積みながら歩んできた一ノ瀬さんに長野県高野連の推薦で選抜大会の派遣の知らせが届いたのです。実は彼の父・一敏さんも派遣審判委員として甲子園の土を踏んでおり、親子2代にわたっての快挙です。

 

どんなスポーツも選手が主役であることに変わりはありません。しかし私の目はひたすら2塁の塁審の動きを追っていました。外野に打球が飛んだときなど球の行方を追いかける動作をはじめ、塁上に走者が出たとき、1塁からの盗塁のとき、ピッチャーからの牽制球のときなど、刻々と変わる状況の一瞬一瞬に対して素早い行動をとる審判の大変さをまざまざとテレビの画面越しに見ました。選手ではなく審判を注視したことはこれまでありませんでした。試合は延長13回タイブレークで近江が長崎日大を破りました。この試合の審判の方々は大変お疲れのことだったと思いますが、私もかなり疲れました。今までとは違う見方をしていましたので・・・。

 

近江高校は、続く準々決勝で以前負けた金光大阪高校(大阪)に雪辱、準決勝では浦和学院(埼玉)に延長11回裏にサヨナラホームランで劇的な勝利を飾りました。決勝では敗れはしましたが代替出場からあれよあれよという間に勝ち上がり準優勝。お見事というほかありません。あっぱれです。実に清々しい好チームでした。

近江高校にも一ノ瀬雄大さんにも甲子園球場の神様が微笑んだ大会だったような気がします。ひたむきに、そしてひたすら努力するものには神様が舞い降りる。審判の大変さも学んだ良い機会となりました。

甲子園1

3月23日(水曜日)大会5日目 第1試合 花巻東(岩手)4-5市和歌山(和歌山)3塁審

甲子園2

3月24日(木曜日)大会6日目 第3試合 九州国際大付(福岡)4-1広陵(広島)1塁審

令和4年4月

辰野町長 武居 保男